東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.118

臨床研修の場

日下隼人    「筆者は、命を救った患者の父親から感謝の気持ちとしてわずかな米を受け取った。それは単なる金品の授受という側面を超えて、暖かい喜びを筆者にもたらした。
   一般的には、医療者が患者から金品を受け取ることは倫理的に問題視されることが多いが、本文中のやり取りには読者も納得せざるをえない説得力がある。これは、医療者も患者も限界に近い状況の中で、治癒に至る過程に胸を打たれるからであろう。これに対し、日本のように一定水準の医療が前提となっている国では、金品の授受はやや異なる側面を持つと考えられる。
 患者が医療者に何かを贈る際、純粋な感謝の気持ちも勿論存在するが、同時に患者自身を特別扱いしてほしいという気持ちも存在するのではないだろうか。医療行為が特別なものではない日本だからこそ、患者自身の存在感を医療者に感じて貰いたいという願いも切実になると考えられる。けれども、このような願いは、専門家としての誇りを持って働く医療者にはその誠意に対する不信感として受け取られるかもしれない。形式上金品を受け取らなかったとしても、医療者が患者の切実な願いに気付かず、それを不信感として処理したり、その願いに胡坐をかいて無意識の上下関係を作ったりすれば、いずれ患者側にもそのことが伝わり、医療者と患者との間に修復しがたい不信感が育つだろう。
   実際に臨床実習で病棟に出ると、小児科の幼い子供まで折り紙の花を手渡してくれる。それ自体は非常に嬉しい出来事であったが、ふと自分が患者側に立った時のことを振り返ると、医療者に『感じの良い患者』と思われたい気持ちがあったことに気づき、学生でありながら白衣を着て気遣われる立場になっているようで複雑な思いを抱いた。患者からの金品は受け取るべきではないが、その裏に存在する気持ちを酌んだ上で、調子に乗るでもなく、安心感を返すことが必要なのだろう。」

   今年の研修医採用試験で、学生が書いた小論文です。課題文では、インドの貧民のための病院で、貧しい家庭の重症肺炎の子どもが医師たちの懸命の努力で救命され回復する過程が描かれており、私はドキドキしながらその文を読みました。その父親がなけなしの謝礼をしたところまでを通して、この学生も心をゆすぶられたのでしょう。冷静な文章だからこそ、その思いが伝わってきます。みずみずしい感性に支えられた目配りの利いた論理の展開が的確な言葉で語られていて、私は心ときめかせながらこの小論文を読み進みました。医療者の誇りから不信感が生まれるという記述には、私たち医療者に「誇り」を持ってほしいという願いも感じてしまいました。「ふと・・・振り返る」というように瞬時に自分の立ち位置を変えて事態を見なおすことや、誰もが抱く「複雑な思い」を忘れずに保ち続けることを、医師になるとできなくなってしまう人の多いことが残念です。制限字数の関係で、最後が簡略になってしまっていますが、そのお蔭で図らずもそこから私たちはいろいろな余韻(自分への宿題)を感じることになります。
   この文には、学生の24年の人生が込められています。医学生として日々思考を巡らしてきた人でなければ、2時間足らずでこのような文章は書けません。この学生のように医療の課題を見極める力量のある医学生は育っているに違いないのですが、それをさらに育てるだけの力量が私たち指導者に備わっているでしょうか。こうした学生の鋭い感性を感じ取るほどの感性を、私たちは持ち合わせているでしょうか。以前、研修医採用試験の履歴書に、医療の場は「人生で最も澄んだ感性を持つ患者と、感覚を麻痺させがちな医師が対峙するところ」と書いた医学生がいましたが(もちろん、採用しました)、臨床研修の場が「人生で最も澄んだ感性をもつ研修医と、感覚を麻痺させがちな指導医が対峙している」場でないという保証はどこにもありません。
   問題文について言えば、金品を受け取ることの可否よりも、患者の溢れる感謝の気持ちをしっかり受け止めることの倫理性を感じてほしいと私は思っていました。「贈り物」を受け取る時、同時に私たちは何かを贈っています。そこで交換される「贈り物」はたとえ金品の授受があったとしても、別の「もの」なのだと思います。 (2012.11)

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