東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.149

医療倫理とコミュニケーション(4) 立居ふるまい

日下隼人    「倫理」とは、人と人とが関わる時の理です。人と人とのつきあいはどうあるべきか、どう行為すべきかということです。だから、倫理を語ろうとするのならば、医療の場という背景の中で、普通の暮らしの「倫理」が実践されていなければなりません。それが「日常の臨床ケアの現場に潜む倫理的問題」です。
   ここでは、恋人同士の付き合い方だけではうまく行きません。社会人として、サービスの提供者として、あるべき付き合いを守らなければなりません。
   廊下や階段で道を譲る、エレベータで患者さんを優先する、きちんとした服装で患者さんに接する、だらしない姿勢を取らない、ていねいな言葉遣いで話す、一方的に笑わない、・・・・。こうした立居振る舞いから始めるしかないのです。ただの礼儀作法と言われがちですが、相手を心から尊重すれば、このような形を取らざるを得ないはずのものであり、実は倫理の問題です。きちんとした服装のできない医師、敬語を使わない医師は、結局は相手を心からは尊重していないのです(きちんとしていても、心からは尊重していない場合はありますが、その逆はありえません)。こうしたことは、相手を尊重しているという意思表示としてのコミュニケーションです。このような形をとることが心を育みますし、形を崩せば心が崩れます。心は形に表れ、形は心を生み出すのです。
   マナーなんてどうでもよいと思う人もいるのですが、「マナーは計算されて作られている。きちんと考えて行動すれば、みんなそのマナーに行き着くのである。そのマナーに行き着かない人は、対人関係を考えていないのではないか」(竹内一郎「人は見た目が9割」)。
   どんな理由があっても、形を崩していくとき、敬意が崩れ、謙虚さが失われていきます。医療現場では、いくらでも「もっともな」理由を作り出すことができますが、それは患者さんには関係がないことです。形を崩していくうちに礼儀の感覚が変質しますから、どんなに白衣をだらしなく着ていても、いい加減な挨拶をしても、敬語を使わなくなっても、失礼なことをしていると感じなくなるという悪循環が進行します。(この話はNo150に続きます。)

   医療倫理というのは生死を振り分けるような極限的な場面でのことではないのだということを、野崎泰伸は、「『究極の選択』に追い込まれた時にせざるを得ない『決定』とは『処世術』なのであって、『倫理』ではない。倫理とはもっと手前において思考されるべきものなのである。・・・・そのような場面で取ってしまう/取らざるをえない行為を倫理とよび正当化しようとするのは道徳的詐術である」と言っているということもNo. 120で書きました(「生を肯定する倫理へ」白澤社)。極限的な場面での選択は、それまでの患者さんとのつきあいの中でしか選び取れないのであり、そのプロセスを抜きにして極限的問題を語ることは、ある種の目くらましです。自分のありようへの問いかけを等閑視して、ご託宣を求めるように行動指針を求めることは、彼我それぞれの逡巡をねじ伏せてしまうことにつながり、おそらく倫理からもっとも遠いことなのです。
   「こんなふうに付き合ってくれる人だから、その人と話し合いたい。その人の意見を聞いてはみたい」と思ってもらえるだけのおつきあい=コミュニケーションが創り上げられれば、日常倫理の課題は達成されています。倫理は、選択にあるのではなく、選択に至るまでの人間関係にあります。コミュニケーションは言葉だけのことではありません。手や五感を介する日々のケア(医師の行うことも勿論ケアです)がきっとコミュニケーションの大部分なのであり、ケアが生まれるところに倫理は生きます(「摘便とお花見」に象徴される場に倫理は息づくのでしょう。村上靖彦:医学書院)。そのあとの「いろいろ」なことは、ここがきちんとしていればなんとかなります。この原則ですべての事態が解決するわけではありませんが、ここがきちんとしていなければただの無原則です。こうした人間関係が無いところでの議論は、いくら重ねても実は虚しい。患者さんの問題を通して自分の生き方が問いつめられないような倫理についての議論も虚しい。倫理の基礎は人間どうしのCommon sense(共通感覚)にあるのです。

   医療者が信じられない時(尊重されていると感じられない時)、医療者と話し合っているようでも患者・家族は自分たちだけで考えて決断しています。その結論に達するまでの間、ふたたび患者さんは「孤独」であることを思い知らされるのです。そのことに気づかぬまま、「話し合った」と私たちが納得してしまっていることは少なくなさそうです。認知症で入退院を繰り返し、先日亡くなった私の母の最後の日々、病院の人たちとの話し合いの席で、私はこうしたことを自省しながら医師の説明を聞いていました。(意識がない人、認知症の人の場合でも、このような関係を作ることが可能であることを、西村ユミは述べています。「語りかける身体―看護ケアの現象学」ゆみる出版)。(続く)(2013.11)

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