東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.183

OSCEなんて・・・?

日下隼人    OSCE(客観的臨床試験)での医療面接が形骸化しているとよく言われます。型通りの応対ばかり聞かされ続ける模擬患者さんたちはいつも物足らない思いに包まれます。「普通、(患者である自分は)こんなふうに医者と話さないよね」と思います。「もっと話したい」と感じても「もう、話したくない」と感じても、マニュアルに適っていれば次の定められた言葉に移行するしかありません。こんなことで良い医者が育つことに役だっているのだろうかと心もとなくなってしまいます。教員にそのことを言うと、教員も「これは試験だから仕方がない」と言います。
   なにしろ、実際の患者になって出会う医師を見ても、効果が上がっていると思いにくい人がいっぱいいます。それ以前に、試験の時にはきちんと「お礼」を言った学生が、その直後に外の廊下で会うと挨拶どころか会釈もしてくれません。いや、これは試験の緊張から解放されたためかもしれないし、そこまで社会性が育っていないのかもしれない(としたら、それも問題だと思わないではないけれど)。でも、評価者の教員も同じ態度だった(SPを一瞥しても、挨拶もしなかった)となると、やっぱりがっかりしてしまいます。SPは「単なる協力者」どころか「物的資源」程度にしか思われていないのかと感じてしまいます。学生もそんな教員の姿を見ています(この教育=隠されたカリキュラムのほうが、ずっと効果が大きそう)。SPを「モノ」として見る人って、患者のことも「モノ」として見るような気がしてしまいます。
   「OSCEでは、学生が挨拶するかを確認するため、患者から先には挨拶をしない。でも、自分は先に挨拶するような人間関係を大切にして生きてきたのだから、こうした演技はとても不本意だ。もっと普通の患者を演じたい」とあるSPさんに言われて、ハッとしてしまいました。「SPをしてみよう」と思い立たれた一番根本のところを傷つけていることを、私を含めて「教育する側」は気づきにくくなっているのです。「それなら、OSCEをしていただかなくとも」という短絡的な声が聞こえそうですが、それもまたSPの「資源視」でしかありません。

   長くSPをしていると、SPのほうはいろいろ経験し知識も増えますが、相手にしている学生は同じ年齢(しかも、どうも少しずつ幼くなっているような気もするのは、私が年取ったせいだけでしょうか)なのですから、ますます教育がちょっとも変わらない気がします。大学の教員は、大学の論理・大学の都合で動いていますから、どうしても市民の思いは違う感覚や論理で話してきます。もともと市民と医療者の考えや感覚の乖離を埋めたいという思いがSP活動の基盤にありますから、乖離を感じるたびに落胆します。それやこれやで、OSCEをいくらしても日本の医療は良くならないとSPはつい思ってしまいます。
    でも、OSCEは間違いなく成果を上げています。卒後10年くらいまでの医師が、それまでの医師より挨拶や自己紹介をきちんとするようになったという言葉は、どこの病院でも(大学病院も含めて)必ず聞かれます。とりわけ、看護師さんから強調されます(医師はそれほど強調しません)。私は、OSCE導入のころ少しだけお手伝いをしたのですが、「こうした教育が試験に馴染むのですか」と尋ねた私に、中心的に推進しておられる先生が「いくら態度を講義しても学生は学ぼうとしないし、そもそも教員がそのような教育をしようとは思わないこの国では、試験をすることで変えていくしかないと思う」と言われました。そして、確かにその通りに事態は動きだしました。「型か心か」とも言われますが、この国の習いごとの例にもれず、「型から入り」、「型に込められた心を知り」、「型を超えていく」という第一段階には到達していると思います。「挨拶」には倫理が生きています。挨拶をきちんとしなければその先の世界は閉じられており、挨拶をきちんとすることだけを守るでもその先の世界は風がページをめくってくれるように広がっていくこともあるのです。つらい時でもきちんと「挨拶」でき、些細なことでもきちんと「お礼」が言え、自分の非はきちんと「謝罪」する。それが、社会性の基本です。
    「OSCEは試験だから仕方がない」「型どおりで違和感がある」としか言わない教員は、「この試験をなんとか生かしたい」「医療の現在をOSCEという(不十分な)道具を使ってでもなんとか変えたい」というようには切実には思っていないのでしょう。

    型に込められた心を伝えるのは私たちの仕事です。No.152でも書きましたが、それはまだまだできていません。心を伝えるための型の教育というものを指導者は学んでいません。(生田久美子「わざから知る」(東大出版会)では、そのことがとても興味深く書かれています。)
    私たちが後進に伝えようとしていること、その遠い目標から見て現在どのあたりにいるのか。教育者はどのように現状を認識し、どのように努力しているのか。そういったことがSPさんたちにお話しできていないということを、SPさんのストレスが教えてくれています。
    先日、次のような文章に出会いました。「(医学)教育が大きく災いしている。コミュニケーションを技法と称し、ツールとして用いる。手段化された人間関係の構築は、相手を対象として冷やかに見つめる観察者、対象を操作する技術者をそだてるだけで、生のつきあいを遠ざけてしまう」(川島孝一郎、現代思想 Vol42-13 2014)。この危惧は、SPの人たちの思いと表裏をなしていると思います。医療者の語る医療コミュニケーションには、「患者を『自分たちのレールに乗せる(それは「屈服させる」に近い)』という臭いが付きまといます。その臭いに馴染まないでいるだけでなく、その臭いの元を断とうとする教育者が増えると良いのですが。

    でも、この10年の間にOSCEを経験した医師が、もう指導的な立場になってきています。OSCEを含めた医学教育の変化についての評価は、もう少し待ってみても良いのではないでしょうか。(2014.10)

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