東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.231

歩み寄る

日下隼人     「ドイツ語の理性Vernunftは、聴き取ることVernehmenからくるのであるが、これは単なる聞くことHörenと同義語ではなく、言葉によって伝えられた思想内容に気が付く、というほどの意味である」(ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」中央公論新社)。理性とは、他者の声や自然の物音を聞き取り、聞き分けることのようです。Vernunftに日常的な「分別、常識、正気、思慮」といった意味もあるというのも、それゆえなのでしょう。コミュニケーションは相手の話を聴くことにつきるのですから、コミュニケーションって理性的なことだったのです。
    「理解」understandは、相手の下に立ってみることで可能になるというのは俗説だということを知って、この感覚が好きな私は少しがっかりしてしまいました。でも、俗説でも巷間に流布するのはそれなりに人の心をとらえるところがあるからなのでしょうし、これからも講演ではさりげなくこの話をしていこうと思ってもいます。
    このunderは "between, among(間に)"という意味で、それが"be close to(近くにいる)"になり、「近くに立つ」から「よく分かる」ということになるのだそうです。ドイツ語の 「理解する」verstehenは、“fur stehen”すなわち「相手の代わりに立つ(代理する)」、したがって「相手の立場に立つ」、「相手の身になる」に由来するとのことです(石川文康「カント入門」筑摩書房)。そうしてみると、「理解」は私の方から歩み寄ることなしにはできないということになります。ということは、「理解した」と思った時、私の立ち位置はそれまでのところと(端的に、自分はそれまでと)は変わっているはずです。自分が変わっていないときには、ほんとうにはわかっていないのでしょう。
    医療面接やケアの場面で、「患者さんの話を聞き出す」という言葉がよく聞かれます。時には、「うまく吐かせた」という雰囲気を感じさせられてしまうこともあります。まるで、地中に埋もれている大根を引き抜いているかのようです。でも、「必要な情報」が聞きだせたということであれば、それは医師主導のインタビューでしかありません。患者さんの思いは大根のように埋もれているものではなく、私たちとの関わりの中で生まれてくるものです。患者さんの言葉は、医療者の歩み寄った程度に応じて、量も内容もかわります。「医療にとっては直接必要がなさそうな情報」を語ってもらえた程度に応じて、そのインタビューの質をはかるという態度があり得ると思います。患者さんの言葉が溢れだしてくるような雰囲気を生み出せていたら、そのとき無自覚にしろ、医師は患者さんの「近くに立って」いるのです。 (2016.02)

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