東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.243

口を噤む

日下隼人     定年で暇になったこともあって、ツイッターやブログをよく見るようになった(なってしまった)ことは、以前にも書きました。いろいろな事件や政治について、あるいはコンサートやテレビドラマについてなどなど、気になったことについて検索してみるとたくさんのツィートが出てきます。賛否、毀誉褒貶さまざまで、人の意見や感じ方はいろいろなのだということに改めて感じ入ります。病気になったときの人の思いが一人ひとり違うのは当たり前のことだと、しみじみ思いました。おかげで、これまで全く知らなかったことをいっぱい教えてもらえるのは一昔前の耳学問と同じですが、ずっと短時間で大量の知識が得られます(ということはきっとずっとたくさんのことが抜けていってもいるのですが)。
    とはいえ、相手を攻撃したり貶めたりする言葉が直截に出てくることも多く、そのことに戸惑うことが少なくありません。批判や意見を表明してこそのSNSですし、「断固許せない」「大間違いだ」と責めたくなるような思いを人が持つのはあたりまえのことです。それでも、人を傷つける粗雑な言葉(粗暴なこともあれば蔑みのこともあります)が使われているのを見るのは残念ですし、悲しくなります。良いことを言っていても、その言葉に阻まれてその先が読めなくなります。これまで出会った文章では良いことを書いてきていた人なのに、SNSとなるとこんな言葉を使える人なのかとがっかりすることもあります(本性はこちらのほうにあると考えて、たいていは間違いがなさそうなので)。
    「アベ死ね」というような表現はわかりやすく、丁寧な表現では怒りや抗議の意思が伝わらないということはあります。だからこそ「日本、死ね」と言ってはじめて事態が動きました(もちろん、それは丁寧な言葉で保育園不足の問題を言い続けても反応しなかったほうに問題があるのですが)。それでも「死ね」という言葉は、医療者にとっては(誰にとっても)耳障りです。「日本(人)の良さ」「日本(人)の美しさ・高貴さ」を唱える人が異なる思想の人や異なる民族の人に対して罵詈雑言を投げかけているのをみると、そのような言葉遣いと「日本(人)の美しさ」との折り合いをつけることが容易にできる人もいるのだなと感心してしまいます。医療の世界でも身内にはとても礼儀正しく患者には全然違う態度の人を見かけますから、日本的なウチとソトという構造がどこにでもあるということなのかもしれません。
    条理を尽くして説明するのではなく、「捨て台詞」でしかない一言で相手を非難した気になるということの底には、言葉への不信があるはずです。誰もが気軽に自由に意見を言えるようになるということと、粗雑な言葉を使いまくるということとは別のことです。悪貨は良貨を駆逐します。「売り言葉」に「買い言葉」は常なのですから、それならば「きれいな言葉」を売るほうが良いのにとは思います(心の中で多少なりとも悪態をついたとしても)。相手を罵倒したり蔑んだりすることは、一瞬快感をもたらすかもしれませんが、結局は不快感が持続します。一晩文章を寝かせてから発信すれば、もっと「きれいな」言葉に置き換わるのではないでしょうか。「きれいな言葉を送ると優しい言葉が戻ってくる」というのは本当です(「きれいな」言葉のやり取りが「欺瞞的」だという論理を組み立てることはできますが)。

    医療に対する批判でも、自分たちの「意に沿わない」医者に対して非難や侮蔑の言葉が投げかけられるのを見聞きするのですが、それでは、自分たちの意に沿わない患者を否定する医者と同じことになってしまいます。医師が圧倒的に強いという権力性があるのだから、同列に扱うべきではないとも言えるでしょうが、患者がひたすら「弱い」立場だというところから考えるのも、思考の怠慢です。「医師が圧倒的に強い」という力の差は、いつでも逆転しうるのです。「当事者は私だ」「死ぬのは私だ」という言葉とともに、力関係は逆転します。「患者は医療の主人公」という言葉にも、そのような響きがあります。医師の言動は、無意識にせよそのことが分かっていて、「死ぬのは私だ」と言わせてしまわないように、強面に出たり患者の言葉を聞かなかったことにしたりしているのかもしれません。(「患者は医療の主人公」「医師が圧倒的に強い」という意味のことを私はこれまで言い続けてきましたし、今もその立場は変わっていないところで、この文章を書いています。)
    相手の人の言動に腹が立つことは、いくらでもあります。イライラしてしまうこともあります。電車の中でも、食事や買い物の時でも。自分が同意できない話を聞くと、すぐ顔をしかめたり不快な表情をしたりする人もいます(私のような世代の男性の中には、やたら怒りだしたり怒鳴ったりする人が少なくないとのことです)。でも相手の言動に腹が立ったり、イライラしたりしたら、自分が落ち着くまで口を噤むという「手」があるような気がします。黙って、自分がなぜ腹が立つのかを考え分析すると、その間に落ちついて態勢を立て直せます。相手の言い分を考えてみる想像力は、コミュニケーションを支えます。黙っている間に、自分の気持ちが顔や態度に出ていないか自己点検するだけでも、落ち着いてくるような気がします。1分はかからないでしょう。主張を控えるのではなく、主張の仕方を変えてみるということです。それだけでコミュニケーションは変わってくると思います。(2016.06)

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