東京SP研究会

2009年  第21回日本生命倫理学会年次大会 発表

医療の受け手が医療者育てに参加する意義


2009年11月実施
第21回日本生命倫理学会年次大会 シンポジウム 要旨
「医療の受け手が医療者育てに参加する意義」 

シンポジスト3
東京SP研究会 代表 佐伯晴子

   私たち一般人(非医療者)の模擬患者は、インフォームドコンセントがきちんと実現できるようなコミュニケーション能力と患者に向き合う態度をもった医療者づくりを目的とし、医療を受ける立場(ユーザー)の視点にたって気づいたことを伝え、医療に相互信頼を基盤にすべく活動しています。
   一方、身体診察の実技を学ぶために、実際の患者さんでは協力を得るのが不可能な部分や、病棟実習前の練習ではシミュレーターという特殊な人形やコンピュータ教材を使うことがあります。また、試験などでは同じ学内の下級生や同じ大学系列の医療系学部の学生や大学職員が身体診察の模擬患者になり、とくに医学部の後輩学生は診察されるという経験から学ぶメリットを得ています。

   ところが最近、医療のコミュニケーション分野で活動している一般人の模擬患者に対して、身体診察の患者役になることが求められているのです。また、既存の一般人模擬患者では協力が得にくいからと、新たに各大学内で身体診察に協力する模擬患者を養成する動きも活発化しています。モノとして向き合うのではなく、人として向き合ってほしいと活動している一般人に、使い勝手のよいモノ・身体になることを求めてきています。
   現に、ある地方の模擬患者団体から、身体診察の授業の模擬患者を要請され、断り切れずに悩んでいるとの相談がありました。コミュニケーションのところをやりたいなら身体診察にも協力をという交換条件が呈示され、メンバーの中で協力賛成と反対の意見が分かれ、反対者は「勇気がない」とみなされたというものです。信頼関係づくりを目的としたコミュニケーション授業の機会を得るためには、自由意思を曲げて身体提供をしなければならないという理不尽な状況です。

   そもそも、人の体はそのように使っていいのでしょうか。患者は治療してもらうから、仕方なく裸になるのであって、身体がどうしても必要なら、医学教育の関係者でなんとかできないのでしょうか。裸になる、身体を触らせる、それを何人かの評価者という他人に見られる、何回も同じ場面で同じ反応を繰り返す、それをなぜ一般人がしなくてはならないのか。アメリカなどではそのための専門職があるらしく、「遅れている」日本でもそれを展開しようとしている人たちがいますが、雇用関係ならいい、のでしょうか? 一度、そのような人的資源を作りだすと、次にどのようなことが考えられるでしょうか。
   まったくの密室(社会とのコミュニケーション抜き)で次々と医学教育の内容が決まり、将来の医師(日本の医療では裁量権をもつので影響力は大きい)の考え方や価値観も純粋培養されます。それでいいのか、それによって危惧されることは何か、それを是正するにはどのようなことが必要か、医学教育者、社会学、倫理学、法学などの専門家、一般人などに問題提起をしたいと思います。




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